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大谷 元秀(おおや もとひで、天文23年(1554年) - 元和8年5月19日(1622年6月27日))は、戦国時代の武将。通称は彦十郎、後に与兵衛。姓は大屋、大矢とも。妻は瀬名氏の娘。丹羽長秀、長重に仕える。 == 生涯 == 大谷吉秀の嫡男として生まれる。 先祖は二階堂氏(信濃流伊勢家)。尾張国丹羽郡大谷を領したことから大谷氏を称したと伝わる。斯波氏、今川氏などに属した後、父の代に丹羽長秀に仕えた。 元秀は永禄11年(1568年)の観音寺城の戦いで初陣を迎えて以来、富山の役など、多くの戦いで活躍した。その武勇は、「鬼弥兵衛と呼ばれた父に劣らず」と賞された。 天正12年(1584年)10月20日に父が没すると、家督の越前国藤枝1万石を継ぐ。ただし翌年、丹羽家が家中騒動の廉で大減封されたため、元秀の所領も5,000石に減じられた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、丹羽家は西軍に与し、東軍の前田利長と加賀国能美郡南浅井(通称、浅井畷)において激突する(浅井畷の戦い)。元秀は坂井直政と共に兵500を率いて北浅井方面に出陣し、長連龍、太田長知ら前田軍の殿軍部隊と戦った。その後、江口正吉、坂井直政、丹羽秀重と共に金沢城へ赴き、和睦交渉を行った。 関ヶ原の戦い後、丹羽家は改易されるが、元秀は長重にただ一人付き従い、その身を守った。元秀の忠義に感じ入った長重は「わしが大名に返り咲くことがあれば、お前には必ず十分の一の禄を分けて恩に報いる」と約束した。 後に長重が常陸国古渡1万石で大名に復帰すると、約束通り元秀には千石を与えた。 晩年は元和と改名している。元和8年(1622年)5月19日、江戸藩邸で病没。享年69。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大谷元秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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